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バレエ、ダンス、舞踏、ミュージカル……。劇場通いをもっと楽しく。

小野寺修二 ダンサーズ・ヒストリー

手がける公演は一年間に10本以上。演出、振付、ダンサーと多彩な顔を持ち、作品ごとに新たな世界を提示する。小野寺修二さんのダンサーズ・ヒストリー。

大学時代に演劇を囓って。

本籍は北海道で、幼少の頃から父の転勤でいろいろな場所を転々としてきました。舞台とは全く関係のない家庭で、子どもの頃親に舞台を観に連れて行ってもらったような記憶もないですね。少なくとも亡くなった父は、僕の仕事を全く違う世界だと受け止めていたような気がします。男三人兄弟で、兄と弟はサラリーマンをしています。だから自分でも何がきっかけでこうやって今でも続けられているのか、ちょっとわからないけれど。

もともと身体を動かすことが好きで、子どもの頃からいろいろなスポーツをやってきました。中学はバスケ部、高校は野球部、大学はスポーツで受けています。それはまず落ちましたけど。いずれにせよ、ダンスのようなアーティスティックなことに興味を抱くことはなかったですね。

舞台に触れたのは大学生になってから。友達と“何かやろう!”なんて盛り上がり、演劇をはじめています。とはいえ実際のところ、それではじめたと言ってよいのかどうか。ただ照明のアルバイトをしてみたりと、少なからず舞台に近づきたいと思っていたのは事実。たぶん演劇が好きというよりも、人前で何かやりたいという気持ちがあったんだと思います。

見よう見まねでやっていた仲間内の舞台は続くつもりもなく、大学卒業後は迷うことなく就職しました。セメント商社で、営業職です。クリエイティブな仕事というものに漠然とした憧れがあって、当初は広告代理店に行こうと考えていました。だけどたまたま内定をいただいた会社が何やらすごく大変そうだったので、やってもいないのに“もっと堅い仕事に就こう”と考えて辞退しました。

 

(C)鹿島聖子

 

きっちり丸三年で商社を退社。

入社の時点で、三年働いたら辞めようと決めていました。三年だけ働こうと。“自分が本当にやりたいことをやろう、三年働けば何かみつかるのでは?”と甘く考えていたんです。当時はちょうどバブルの時期で、時代もどこか浮かれていたんだと思います。

仕事は面白かったですね。セメント会社だったので、売る物といえば生コンクリートがメイン。営業といってもカッコよく背広を着て仕事をする感じではなくて、朝5時に工事現場に行っては深夜までずっとそこに詰めているような日々。ちょうど長野オリンピックを控えていた時期で、関越道の工事もあって、仕事もひっきりなしに舞い込んできた。現場で働いている人たちもいきいきしてた。

ものを売るという意味では、今やっていることと変わらないのかなって思います。単純にいいものをつくれば売れるかというと、そういう訳でもない。頑張っても売れないものもあるというのは営業していて感じていたし、そういう理想と現実を行ったり来たりする感覚は当時からあって。特に売っているものが生コンだったりすると、どこの製品もさほど変わらなかったりする。じゃあどうやって売るかというと、人とは違うことを見つけなければいけない。自分の中でその商品について腑に落ちていて、“これはこうだからいいんだ”と言えなければいけない。そのへんは今の自分にとってプラスに働いていると思います。

営業マンとしてはなかなか優秀だったんです。成績も良かったし、営業が向いていたんだと思います。だから辞めるときはひと悶着ありました。上司に苦しまぎれに“司法試験を受けるので”と言って辞めました。大学が法学部だったので咄嗟に出た言い訳で、でも何かをしたかった。当初の計画通り三年間働いて、三年目の3月31日付けで退社しました。

 

水と油『スープ』

マイム研究所でマイムをスタート。

辞めることだけ決めて辞めたけど、何の目算もなし。ただ頭のどこかに大学時代に囓った舞台の記憶がぼんやりあって、“一度やるだけやってみたいな”という気持ちになった。ところが劇団を探そうと演劇雑誌をチェックしてみたら、すでにどこも募集が終わってた。結局、唯一締め切りがなかったボイストレーニングの学校に入学を決めました。

マイムとの出会いはその学校に通っていたときのこと。課題で出されたマイムのエチュードが上手く消化ができずに四苦八苦していたら、ふいに大学時代に通学路で見かけた光景を思い出したんです。タイツを履いてる人たちが出入りしている怪しい場所があって、『日本マイム研究所』という看板が出てた。当時は何かヘンな宗教団体なのかなと思っていたけど、あれはマイムの学校だったんだと。これは縁があるのかなと思い、『日本マイム研究所』の門を叩きました。“マイムをやってみたい!”という訳でもなく、ちょっとわからないことがあって、“もしかしたらそこにヒントがあるかも”という軽い気持ちです。

いざ研究所に通いはじめたら、なんだか不穏な空気が漂っている。昔も今もマイムをやろうという人間ってマニアックな人が多くて、劇団みたいにみんなで一緒にわいわい何かをつくるというよりも、個人作業での楽しみを求めに来てる。どうにも馴染めないし、馴染みたくもない。それに僕は当時すでに27歳で、社会人も経験してたし、ちょっと冷めてた。“この人たちとは絶対ムリ、合わない!”と思って、“壁のパントマイムができるようになったらさっさと辞めよう”と考えてました。

 

水と油『スープ』

 

研究所ではいくつかルーティーンの課題があって、それをひたすら反復するという稽古。師匠の動きをとにかく真似て、動きの質感とか間とかリズムとか、真似から全て習得した気がします。今なら“あれがこういうことに役立つんだ”と何となくわかるけど、当時は何がどう役に立つのかわからないまま、見よう見まねで稽古をしてました。マイムにそれほどハマっていたという訳でもなくて、でもあっという間に時間が過ぎた気がします。

なぜか師匠は僕のことを目にかけてくれて、ずいぶん早い時期から作品に出してもらいました。そこでマイムには“自分が思っていたことと違う面白さがありそうだ”、ということに気付いて。ピエロのイメージがあるように、マイムっておどけてみせることだと思ってた。だけど大切なのは嘘のない真面目さであって、困るとか驚くとか、こちらが一生懸命やったことに対してお客が笑うんです。

例えばヘンな人が登場したことに舞台上の人が驚くと、お客は自分の視点でヘンな人を想像してくれる。こちらが説明している以上のものがお客に届くことがある。ヘンな格好をすることに全力を注ぐのではなく、観客の想像力を借りられれば、それを目撃した人の反応によって、出てきただけで笑うことだってあるんだと知った。ということは、究極の話、立ってるだけで魅力的になるかもしれない。

ひとりの男がそこに立つだけで、想像のスタートがはじまる。マイムの場合はそれがありそうだぞと。それはまたお芝居の根源だと思ってて、そこに行き着けたのはありがたかったし、あのまま気付けなかったら続けていなかったと思います。

 

水と油『見えない男』

 

-コンテンポラリー