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麿赤兒『パラダイス』インタビュー!

麿赤兒率いる大駱駝艦が、本公演で待望の新作『パラダイス』を発表! 麿赤兒を筆頭に大駱駝艦のメンバー総勢20名が集い、その作品世界を提示します。上演に先駆け、構成・演出・振付を手がける麿さんにインタビュー。作品への想いをお聞きしました。

1972年に大駱駝艦を旗揚げされています。麿さんの中で、そこに“パラダイス”をイメージした部分はあったのでしょうか?

麿>当時はあまり考えてなかったけれど、結果的にはそういうことになるのかもしれません。一種の祝祭というか、“オレたちの舞台そのものがパラダイスなんだ”ということ。舞台というのはあくまでも虚構のもので、虚構というのは自分の頭の中のものでもある。実際にそれをやったら捕まったり、病院に連れて行かれたり、という結果になるかもしれない。そういう意味でも舞台というのはやはり幻想であり、祝祭空間、パラダイス空間を成立させうる場所でもある。

といってもタブーは多い。劇場の機構だとか、ヘンなものを見せたらお客さんが怒るだろうなとか、いろいろな視線や枷があって、それもひとつの壁であることは確か。お客と我々の了解事項の中で為し得ることで、でもみんながみんな同じように了解しているかどうかはわからない。何だこんなもの、ひどいじゃないか、ヤバイんじゃないか、キケンなんじゃないかとか、いろいろ思うところもあるでしょう。けれど劇場という場所はやはり虚構の空間であり、いわゆる社会的価値観というものとはちょっとズレたところにある。実際そういう劇場であって欲しいと思うしね。

劇場というのは古来からある訳だけど、そこにお客が何を求めているかというと、社会といわれるものと人間の生き方との折り合いを付ける場だと思う。祭りにしてもそうで、ある意味ガス抜きのためにやっていたりする。ある種の自由空間として存在させる。だからこそ必要だし、それがないとヘンなところで爆発してしまうようなこともあるでしょう。人間の欲望というある種の発露を受け止める場所、そういう空間であろうとしたのが大駱駝艦。お芝居でもみんなそういう面はあると思いますよ。

2013年「シンフォニーM」(C)川島浩之

2013年「シンフォニーM」(C)川島浩之

 

大駱駝艦の設立から44年が経ちます。この44年間を振り返ってどう感じますか?

麿>遊んでるうちにそうなっちゃったのかな。先のことは全然考えてなかったし、一瞬一瞬の積み重ねでたまたま44年が過ぎた。一瞬一瞬が楽しいということです。だから、44年といっても何の意味もない。我々の小さな楽しみというか、それこそオタク的パラダイスですよね。虚無的な気持ちが入り交じっていて、舞台そのものもパラダイス、不幸なこともパラダイスだと感じられる。ただ最初は楽しければ何でもいいやとやってても、やればやるほど意義を求め始めてしまう。いろいろなことが持続していくと、そういうことをひしひしと感じますよね。

2014年「ムシノホシ」 (C)川島浩之

2014年「ムシノホシ」
(C)川島浩之

 

長く続けていく過程で、純粋な楽しみでは済まされなくなっていくものがある。そんななか今なお楽しいと言い切れるのは、そこにあえて意識を向けているからでしょうか? 麿さんにとって、舞台へ向かう原動力とは?

麿>あえて馬力を出して楽しもうというよりも、どちらかというと自然と楽しんでるんでしょうね。もう最初に諦めがあるから、何でも楽しいみたいな部分はありますよ。こうしたら楽しいというよりも、その場でやってることが面白い。身体が痛いとかしんどいとか病気だとか、それもまた楽しい。そういう日常の中での楽しみというのを味わってるみたいなところはありますよね。もちろん悩みもあって、みんなと同じように悩んでるとは思うけど。何か失敗をしたとき、普通だったら“ああ年を取ったな”ってしょぼんとしちゃうんだろうけど、身体についてああでもないこうでもないとやってるから、それを面白がれるということはある。

年寄り同士で話をしてると面白いですよ。同病相憐れむみたいなことを楽しむところがあって、たいしたことのない段差でも年寄りはすぐつっかえるんだよね、と語り合ったりする。年を取ると身体や頭がどんどんズレていったりする。そういう距離感のズレも楽しい。“何故?”って問うと面白い。おかしいな、ちゃんと足を上げてるつもりだったんだけどつっかかったな、と。そういう日常のちょっとしたことでも大事にしましょう、という面はありますよね。

例えば最近はコンビニの包装なんかも難しくて、どこから剥いていいかわからないようなものがある。若い人なんかぱぱっとできるけど、そういうちょっとしたことでも僕らは苛ついちゃったりする。バスター・キートンの喜劇なんかはまさにそれですよね。何かを修理しようと思っていたら今度はこっちが壊れて、あれよあれよと結局バラバラになってしまう。そういうことがいつも身体の中で起こっているような感じでしょうか。

普通の人はそんなこと考えないんだろうけど、長く身体のことをいじくりまわしていると、そういうことも考えるようになるんでしょうね。ついつい意識化しちゃうというか。いつも僕が言うことだけど、身振りというのはものすごい大きな表現なんです。

お芝居にしても、例えば年を取って台詞の覚えが悪くなるとか、呂律が回らなくなるということを、ひとつのリアルとして捉えることもあるでしょう。世の中を見回しても健全で二枚目でという人間の方が少なくて、むしろ欠落がある人の方が多いじゃないか、という開き直りはある。大野一雄先生が車椅子で登場して手を上げただけでワッと拍手が沸き起こったり、泣いたりする人がいたけれど、それもある種の極意ですよね。加齢とか時間が人間をこういう風に変形させていく、身体自体が踊りなんだということ。身体が動かなくなっていったり、時間が作り出した作品だというように転換する能力というのは特に舞踏の世界では多いと思う。

簡単に言えば、それが見世物になる。若いときはきれいに踊っていても、年を取ったらアラベスクひとつ上がらないとか、そういう世界を見たいというのはありますよね。あの人がああなっちゃったのっていう部分と、それを見せる度胸であり勇気。クラシックバレエの世界でそれは許されないけれど、これも表現ですという世界はある。日本の場合は特に幅が広いですよ。能の世界でもそうで、年老いて何千万の衣裳を着て出てくるだけでありがたがられることもある。世阿弥なんかは年取ったら影に隠れて踊れと言ってるけれど、老体を見せつけてやろうということがあってもいいんじゃないかと僕なんかは思います。

蜷川幸雄さんも高齢者を集めたカンパニーを作って舞台をやってたけれど、ある意味通じるところはあって。こんな年寄りだけどこんなに頑張ってますということだけを見せようというのではなく、彼らが積み上げてきた時間というのがあって、動かない身体を晒すというか、それを動かそうというか、むしろそこに浸ってみることの方が面白いところにいくんじゃないかと……。そういう風に、自分でモチベーションを高めてやっているんですけどね。

 

2013年「シンフォニーM」(C)川島浩之

2013年「シンフォニーM」(C)川島浩之

 

 

 

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