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笠井叡 舞踏をはじめて <16>

大野一雄に学び、土方巽と交流を持ち、“舞踏”という言葉を生んだ笠井叡さん。その半生と自身の舞踏を語ります。

1979年5月、エドガー・アラン・ポーを題材に舞踏作品集Ⅲ『死美人』(シューベルト)を日比谷第一生命ホールで上演。渡欧前の最後の公演となった。

『死美人』のベースになったのが、アメリカの作家エドガー・アラン・ポーの作品でした。三島由紀夫は小説を書くときまず結末を決めていて、そこに辿りつくように物語を構成していたと聞いたことがありますが、ポーもそう。例えばポーの代表的な詩『大鴉』にしても、“この言葉を与えれば読者はこう感じるはずだ”とひとつひとつ心理を計算して書かれてる。文学作品ではあるけれど、自然主義的な素晴らしさではなく、技巧的に計算された素晴らしさがある。

ポーを即興で踊る。私がそこでしようとしたのは、虚の言葉を積み重ねていくことにより、この世に存在していない実を積み重ねていくということ。それは人工的につくり出された緻密な作品を踊るということではなく、そのひとつの精神性と同化するということでした。

『死美人』は天使館の5人の女性が登場します。振付ではなく全て即興で、みんなには「やりたいようにやってください」と伝えました。

振付は手品と似ているところがあって、ダンサーにタネ明かしをする場合としない場合がある。「こうしてください」とだけ言う振付家と、「こうしてください。何故ならこうすればこういう方向に行くから」と伝える振付家がいて、私はどちらかというと前者。タネ明かしはしない方がいい。意地が悪いけど、最後までタネは明かしません。タネがわからず踊っている方が遥かに面白い。

ダンサー自身が意図を明確にわかっていて、“自分はこういう踊りを踊りたい。どうぞ見てください”という場合、観客はたいして見ようとしない。観客に感動を与えるには、ダンサーも気づかない部分をつくる必要がある。そのためにはタネ明かしをしないまま舞台に上がってもらう方がいい。ときには私の狙いが舞台の上で出てこないこともあります。それはそれで、私自身が舞台で踊りながら調整していけばいい。『死美人』のときも、練習の過程で少しずつみんなに感じてもらえばいいと、直接的な言葉で説明するのは避けていました。

『死美人』のもうひとつのテーマとして、シューベルトという音楽家と直接向き合いたいという想いがありました。作中使っているのは『未完成』と『死と乙女』。私の中ではシューベルトの作品で『未完成』を超える曲はありません。シューベルトという音楽家は、ダンスに大きなインスピレーションを与えてくれる。曲をつくり出すシューベルトの身体性や資質、内面が、踊る上で大きな力になる感覚がある。シューベルという音楽家は非常にシャイで気の小さい人だったけれど、一方で音楽の世界だけはどんなことがあっても守ろうとする強さを持っていた人だった。シューベルトの曲の中には強い意志でつくった音楽の力というものがあって、その力がダンス的に向かうとすごいエネルギーになる。それが一番結集しているのが『未完成』と『死と乙女』の二作です。

シューベルトとバッハ、ベートーヴェンの音楽を身体で捉えるとそれぞれ違う。その音楽の中にある違いというのは音楽性の違いではなく、大げさな言い方をすれば、神がひとりひとりの人間に与えたものはみんな違う、ということになる。何故こんなに人間はひとりひとり違うエネルギーを持ち、違う身体を持つのか、私はとても不思議に思ってしまう。シューベルトの中に流れているシューベルト独自のものを、自分の中でダンスと結び付けたいーー。そんな想いで取り組んだのが、『死美人』という作品でした。

時を経て2019年の年末、40年ぶりに『未完成』を踊りました。それ以外に踊ったことはありません。再演はあまり好きではなく、一回踊ってしまえばそれでいい、という感覚です。『花粉革命』と『日本国憲法を踊る』は私の中では異例であり、再演を重ねてこられたのは周りの方がセッティングしてくれたから。『高丘親王航海記』などはセットも大がかりなので、経済的な面でもまず再演はできないでしょう。ひとたび公演が終わればセットは燃やしてしまいます。

1979年7月、渡欧。天使館を後に残し、ドイツで新たな生活をはじめる。

ドイツに渡ったのは35歳のとき。『死美人』の2ヶ月後で、ほとんど準備もせずに行きました。かなり突然ではあったけど、行くと決めたら周囲の言葉はあまり気にはしなかった。天使館はそのままの状態で残していきました。みんな自由に使ってやってください、という一種の貸し稽古場のような形です。

けれど私が突然日本からいなくなったものだから、“天使館をつくっておきながら勝手にいなくなった” “無責任だ”とみんなが怒ってしまった。とはいえそもそも天使館というのはカンパニーではなく、私が当時していたダンスを一緒にしたいという人たちが集まっていただけのこと。私がいない間も天使館に来ていた人たちはいて、山田せつ子さんや山崎広太さんなども変わらず通っていたようです。

最初に住んだのは南ドイツのフライブルクという場所でした。フライブルクにしたのはたまたまで、とりあえずドイツ語を勉強しなければと、語学学校のゲーテ・インスティテュートに3カ月間通っています。ゲーテ・インスティテュートは語学学校のはずなのに、なぜかドイツ人の若者たちが集まっていた。どうしてだろうと思っていたら、学校の先生が合気道を教えていて、彼らはそれを習いに来ているという。

実は私は合気道の段を持っていて、人にちょっと教えるくらいのことならできる。学生たちが夢中になっているのを見て、「そんなに合気道に興味があるなら教えてあげよう」と言ったら、人がたくさん集まってしまった。今でも悪いことをしたなと思っているのだけれど、私が教えはじめたものだから、みんな語学の先生のところへ行かなくなってしまった。私もそれでドイツ人の友だちが一気にできた。彼らと映画を観に行ったり、芝居を観に行ったりするうちに、気づいたらすっかりドイツに溶け込んでいました。

家族をドイツに呼んだのは半年以上経ってから。手続きにかなり手間取ってしまった。当時長男の爾示は10歳、次男の禮示は7歳、一番下の瑞丈はまだ5歳で、学校の手続きもあるし、住む家も準備しなければなりません。母も一緒にドイツへ行きたいと言ったけれど、それはちょっと無理だからと説得し、国分寺に残ってもらっています。

家族全員ドイツ語の勉強もしないままドイツで暮らしはじめました。でも子どもというのは語学の天才で、一年後にはすっかりドイツ語が話せるようになっていた。子どもたちと違って、私はドイツ語にはとても苦労させられました。

笠井叡 舞踏をはじめて <17> に続く

 

プロフィール

笠井叡

舞踏家、振付家。1960年代に若くして土方巽、大野一雄と親交を深め、東京を中心に数多くのソロ舞踏公演を行う。1970年代天使館を主宰し、多くの舞踏家を育成する。1979年から1985年ドイツ留学。ルドルフ・シュタイナーの人智学、オイリュトミーを研究。帰国後も舞台活動を行わず、15年間舞踊界から遠ざかっていたが、『セラフィータ』で舞台に復帰。その後国内外で数多くの公演活動を行い、「舞踏のニジンスキー」と称賛を浴びる。代表作『花粉革命』は、世界の各都市で上演された。ベルリン、ローマ、ニューヨーク、アンジェ・フランス国立振付センター等で作品を制作。https://akirakasai.com

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