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山崎広太『薄い紙、自律のシナプス、遊牧⺠、トーキョー(する)』インタビュー!

山崎広太さんが、ニュージーランドのダンスカンパニー・Footnote NZ Danceとの協働ダンスプロジェクト『薄い紙、自律のシナプス、遊牧⺠、トーキョー(する)』を、この秋愛知・東京で上演。本作を機に、アメリカと日本の二拠点生活をスタートするという山崎さん。開幕を控え、作品の発端とこの先の展望についてお聞きしました。

ニュージーランドのダンスカンパニー、フットノート・ニュージーランド・ダンス・カンパニーとの協働ダンスプロジェクトとして『薄い紙、自律のシナプス、遊牧民、トーキョー(する)』を発表されます。作品の発端をお聞かせください。

フットノート・ニュージーランド・ダンス・カンパニーがアジアのコレオグラファーとのコラボレーションに非常に興味を持っていて、日本人振付家をリサーチしていたようです。そこで僕が選ばれ、2019年にニュージーランドで4週間にわたりレジデンスをしています。

フットノートはコンテンポラリーのダンスカンパニーで、約40年前に設立されたそうです。ニュージーランドには国立の演劇とダンスのセンターがあって、そこに入ること自体が狭き門になっています。カンパニーのメンバーはみなさんそのセンターを通過しているから、ちゃんとフィジカルなトレーニングができていて、ダンサーとして優秀な人が多いですね。僕のムーブメントは特殊なので、非常に興味を持って受け入れてくれました。まぁそれもダンサー次第ですけど(笑)。

僕のムーブメントはかなり細かく、それでいて個々に同時多発に存在するものも多い。僕としては、そのダンサー自身が自分の中で、自身の方向性を見出してもらえたら何も問題は無いというスタンスでいましたね。

©Stephen A’Court

そのときの感触が非常に良くて、2020年に前作『霧、神経、未来、オーシャン、ハロー(木霊する)』を創作しています。

ただ当時はコロナ禍で現地に行けなかったので、僕は自分のムーブメントをビデオで送り、パフォーマーが主体的にそのムーブメントを踏襲して、空間のポジションなどに関しては彼らが自分たちで構成し、作品化しています。だから結構特殊な例だと思います。ただそれであるが故に、非常にそれぞれの主張があり、絶えずコミュニケーションのある作品になりました。

『霧、神経、未来、オーシャン、ハロー(木霊する)』とニュージーランドのコレオグラファーの作品とのダブルビルで、ニュージーランドで国内ツアーをしています。ニュージーランドはコロナが蔓延していなかったので。僕は行けなかったけれど、公演の様子はビデオで見せてもらいました。

今回の作品は『霧、神経、未来、オーシャン、ハロー(木霊する)』がベースになっていて、それをもう少し広げる感じでしょうか。まず日本でツアーをして、その後ニュージーランドとアメリカでツアーをする予定です。

©Stephen A’Court

前作をベースに、今回はどのようなクリエイションが行われたのでしょう?

今年8月、現地で一ヶ月間レジデンスをしています。前回と共通のダンサーは誰もいなくて、新しいメンバーになっています。カンパニーは月々の給料制で、ダンサーになるこれからの若い人になるべく多くカンパニーを通過してほしいから、数年ごとにダンサーが入れかわるんですよね。だから作品に出演するパフォーマーもどんどんかわっていく。今回苦労したのはそこでした。前回はダンサーが僕のムーブメントを通してそれぞれ自分の表現や周りとの関係性だったり、自分のキャラクターを見つけていったけれど、今回は全くそれがないから。

出演するダンサー5人には100%振付をわたしています。取りかかりは言葉と身体の関係で、それは非常にエキサイティングでした。まずムーブメントをつくって、その上にポンポンポンと言葉を与えていく感じ。みんな英語で喋るから、日本のお客さんは理解できないかもしれません。でも理解できなくても全然問題ないですね。例えばプロジェクターで言葉を投影することもできるけど、それはしないつもりでいます。逃した瞬間の方が僕は嫌なので。言葉に関しては、見て楽しむ方がいいと思っています。もし言葉の意味が理解できるなら、身体の状態と違うレイヤーが同時にあるから、またそれも面白いと思うけど。

©Stephen A’Court

前作も言葉を使っていますが、今回の作品はそれよりもっと言葉と身体の関係を明確にしたという感覚があって。ダンスにおける言葉と身体の関係というものの方向を自分なりに見出しました。僕はそれが一番今回この作品で重要なことだと思っています。

それは身体化と脱身体化、エンボディメントとディスエンボディメント、ふたつのこと。作中はレクチャー形式で解説します。例えば「私は昨日あなたのことをずっと思ってました」と言ったら、もうそれ以上のものはない。言葉ってそれほど強いものじゃないですか。これがエンボディメント。その言葉によって身体が消費される。

一方で、ディスエンボディメントというのは、非常にダンスとコネクトしていると思う。ディスエンボディメントは、これがいいのか悪いのかわからない。振付のチョイスにしてもそう。否定と肯定の両方あって、条件自体がわけのわからない状態で、迷っている。それは中動態ですよね。でも中動態なのだけど、何かムーブメントをつくらなければいけない、何か言葉を見出さないといけないという、その微妙な関係性がある。それと、そこから見いだした表現があって。いろいろなことを同時に展開するスタイルを見い出した。今回の作品においては、僕の言葉とダンスの関係がオリジナルだと僕は思っています。

©Stephen A’Court

作中で使う言葉はどのように選んでいますか?

ダイレクトに身体が変化している状態の中で、この言葉を選ぶ、という感じでしょうか。だからその言葉の選び方というのは絶対的にストーリー的なものにはならなくて。ストーリーの展開としてというより、基本的にはダンスがあって、その上に言葉を乗っけているだけ。だからやっぱりポエティックなものにならざるを得ないですね。

©Stephen A’Court

タイトルもポエティックで、交わらない言葉が並んでいます。

そうですね。ダンスに置かれる言葉たちもこんな感じかもしれません。ただ、東京や日本というのは今回特に意識しています。

©Stephen A’Court

 

-コンテンポラリー