山崎広太『薄い紙、自律のシナプス、遊牧⺠、トーキョー(する)』インタビュー!
言葉を作品に使い始めたのはいつごろからですか?
2015年にJCDN『踊りに行くぜ!!』で発表した作品でもやはり言葉を使っていました。僕の言葉のチョイスというのは誰かに影響されたものではなくて、もうそのころから自分の言葉を使ってる。この歳月の中で、それが徐々に膨らんできた感じです。
ダイレクトに言葉にフォーカすることができたのは、Dance Base Yokohamaの「ダンステレポーテーション」でした。オープニングイベントとして屋外で公演をする予定だったけれど、コロナ禍でできなくなってしまった。そのかわり僕がオンラインで10人くらいのパフォーマーにインタビューをして、そこからインスパイアされたものを言語化し、その言語をどのような手段でもいいから作品化するという試みをしています。そのとき言葉をたくさん書きました。それも身体にフォーカスした言葉がほとんどなので、目をつぶっていてもその言葉で動けるような、言葉のダンスみたいな感じ。
これまでつくってきた作品にはやはり言葉が入っています。でもここまで多いのはないですね。だんだん増えてきています。ただ今後そちらの方向性に行くのかはこれが終わってみてからでないとわからない。
そもそも言葉に行きついたのは何故?
ダンスは身体だけだとやっぱり弱い。たぶんそれは誰もが気づいていると思うんですよね。だからダンスだけで攻めようとすると、ムーブメントに対してのひっかかりが何かしら必要になる。それがストーリーになってしまったらダンスをする意味がなくなってしまうけど。
アメリカって基本的にマース・カニングハムを中心に、抽象のダンスが強い。僕もその影響をダイレクトに受けていると思います。その上で僕は基本的にダウンタウン系だから、やっぱり何かアクセントとして、ダンスを理解するひっかかりとして、抽象的な環境の中における言葉が僕の場合はリアルだと思っていて。
ニューヨークはアップタウンとダウンタウンにわかれていて、アップタウンはバレエやモダンダンスで、ダウンタウンはもっと全てがインディビジュアルで実験的だし、アイデンティティ・ダンスだったりする。
ニューヨークという土地がそうさせるのだけれど、ダンスと自身の表現活動がすごくリアルに関係してくる。ニューヨークにはいろいろな人種がいて、しかもそれぞれの人種の主張というのが絶対的に受け入れられる。例えば黒人の場合いかに差別的な状況の中に自分たちはいるかだったり、ブロンクス出身の人だと虐待だったり、そういうことをダイレクトに表現してる。
ニューヨークのコンテンポラリーはアイデンティティ・ダンスがほとんど。でも僕はアイデンティティ・ダンスはあまり好きじゃなかった。でもモダンダンスだとあまり自分のリアリティがない。もっと抽象性の強いダンスの方がいい。
言葉がなくてもOKではあるけれど、なんかちょっと時代に合わない。それと僕の場合、言葉を入れることによって、身体と言葉の関係の間にスペースができるような気がするというのもあります。
山崎さんの作風はやはりニューヨークという場所だからこそ生まれたもの?
東京にいたときも抽象的な作品が多かったと思います。あと、基本的に違ったバックグラウンドの人を使って作品をつくっていましたね。それは今もそう。ヒップホップの人だったり、バレエの人だったり。それが僕の作品の特徴でもあって。
全く違ったバックグランドで何か一個のプロジェクトすることにコレオグラファーとしてのダイナミズムがある。通常だとコレグラファーは自分の世界観を再現してくれるダンサーを選ぶけど、僕は全く違って、僕の思考とは全く関係ない人がいい。その中における関係のダイナミズムが好き。それでこれまでやってきた感じがいます。
ただ、今回のフットノートのメンバーはみなさん同じような環境で訓練されてきた方たちなのでは?
そうなんです。なんだかんだ言って、コモンセンスを持っている人たちの方がやっぱり強い作品になりますよね。ベッシー賞にノミネートされた2018年の作品もそうで、ダウンタウンのダンサーしか使わなかった。つまり、異なるバックグラウンドの人を使うと、やっぱり作品は弱くなる。同じコモンセンスを持つ人たちで集まった方がどう考えてもやりやすいというのはありますね。ニューヨークは人種もバックグラウンドもみんなばらばらでごつごつしているけれど、東京だとやっぱり多少ごつごつはしていてもコモンセンスがある。それが東京とニューヨークでの作品の違いかもしれない。
今回の作品もいろいろなタイプのダンサーはいるけれど、フィジカルなことができるテクニックを持ってるカンパニーで、それでいてニュージーランドというひとつのコモンセンスがありますよね。




