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湯浅永麻 ダンサーズ・ヒストリー

ネザーランド・ダンス・シアター(NDT)の主力ダンサーとして11年間活躍し、イリ・キリアン、マッツ・エック、ピーピング・トムなど錚々たる振付家の作品に出演。2015年に独立、以降フリーランス・ダンサーとして精力的な活動を続けている湯浅永麻さん。身体ひとつで世界を駆ける、湯浅永麻さんのダンサーズ・ヒストリー。

名教師、マリカ・ベゾブラゾヴァのもとで。

グレース・ケリーがモナコ王妃になったとき、バレエ好きだった彼女が王宮の別荘を学校に提供してできたのがプリンセス・グレース・アカデミー。とてもキレイな学校で、地中海も近くて環境もいい。敷地内にドミトリーがあって、私もそこで暮らしてました。すでに卒業されていましたが、上野水香さんをはじめ、日本人留学生も何人かいましたね。先生は語学に対してとても厳しく、フランス語で話さないと叱られる。フランス語の先生はフランス語しか話さなかったので、その分覚えるのは早かったと思います。

クラスはエクセランス1〜4と分かれていて、私はエクセランス2からスタートし、夏休み後はエクセランス3に進級しています。朝のレッスンは9時からで、そのあとヴァリエーションやパ・ド・ドゥ、キャラクターといったクラスが続きます。コンテンポラリーやモダンのクラスもあったけど、当時は学校もそこまで力を入れてなかったように思います。

 

モナコ学校時代 Jiri Kylian振付『シンフォニー・イン・D』

 

校長はマリカ・ベゾブラゾヴァというバレエ・リュスの時代に踊っていたこともある名物教師で、当時すでに80代。ミハイル・フォーキン(当時の芸術監督)に“あなたはダンサーではなく先生に向いてる”と言われ、ダンサーから教師に転向したそうです。やはり教えの才能があったんでしょう。彼女の教え子には錚々たるダンサーたちがいます。ルドルフ・ヌレエフや森下洋子さんをはじめ、プロのダンサーもよくマリカに習いに来ていました。フリードマン・フォーゲルもそのひとりで、彼はケガが多かったので、時折モナコに来てはマリカに調整してもらっていましたね。

マリカは伝統的なクラシック・バレエの教えを守っている人で、“脚を高く上げすぎるな”とか、アラベスクも“腰より上に上げるな”といった注意をよくされました。本当のクラシック・バレエとは何か、をきちんと伝えたいという意識を持っていたようです。身体性だけでなく、何のためにバレエをするのか、ということをずっと言い続けている人でした。バレエの歴史や物語はもちろん、音楽の背景についても厳しく教え込まれました。たまたま流れてきた曲について“これは誰の曲?”と聞かれ、こちらが答えられないとひどく怒られたものです。あのときはそれがイヤで、“私はもっと技術を習いたいのに!”と思っていたけど、今となってはありがたいなと感謝しています。

 

マリカ・ベゾブラゾヴァ

 

首席で卒業、三年間の浪人生活へ。

2002年の夏、プリンセス・グレース・アカデミーを主席で卒業しました。当時の私はばりばりのクラシック派で、卒業後はクラシック・バレエのカンパニーに入りたいと考えてました。

だけど、オーディションをいくら受けても、どこも私を採用してくれるところはなかった。欧米人と比べて背も低いし、スタイルもよくない。それにちょうどヨーロッパに日本人ダンサーが増えていた頃で、どこのオーディションに行っても日本人がいたし、私のようにあぶれていたダンサーは多かったと思います。

卒業したら寮を出るのが通例ですが、マリカ先生から“そのまま寮に留まってレッスンを受けるように”と特別にお許しをいただきました。卒業生やプロのダンサーが休みの日やケガの復帰のためにに受けられるプロフェッショナルクラスという枠があって、そこで毎日レッスンを受けながら、オーディションを受け続けました。

ドレスデンバレエに受かったのは、オーディション生活二年目のこと。“人が足りないからすぐ来てくれ”と言われて急いで行ったはいいけれど、ドイツの移民対策が厳しくてビザが下りない。結局正規雇用とはならず、秘密裏に『白鳥の湖』と『くるみ割り人形』に出演し、現金でギャランティをもらってモナコに帰ってきました。やっと受かったと思ったのに、出戻りになってしまった。またオーディションの日々です。

 

NDT2クラス

 

ドイツの小さなカンパニーに夜行で行ったり、飛行機の乗り継ぎで空港を間違えたりと、いろいろなことがありました。けれど、結局どこにも通らなかった。マリカ先生の元教え子だったニースバレエのディレクターが短期雇用してくれて、ニースで『くるみ割り人形』や『シンデレラ』にコール・ド・バレエで出たことはあったけど、仕事といえばそれくらい。そういうこうしている内に三年が経ってしまった。いつまでも親に甘えてはいられません。実際一時期実家が経済的に大変だったことがあったようだけど、私は全く聞かされておらず、ずっと後になって知りました。何も言わずにがんばって援助してくれて、本当にありがたいなと思います。

今年が最後だと覚悟を決めて、それでダメならいい加減日本に帰ろうと考えました。そうしたらマリカ先生が“じゃあウチに来ればいい。それなら寮費がかからないから”と声をかけてくださって。マリカ先生のお宅はモナコのタワーマンションにあって、眼下に地中海がワッと広がるお部屋です。

居候をさせてもらうかわりに、マリカ先生のお世話をするのが私の役目。先生はひとり暮らしでしたけど、もうお婆さんで椅子から立ち上がれないようなこともあるくらい。リウマチもひどかったし、食事制限もある。先生をお風呂に入れて、身体を洗って、全身にクリームを塗って、ご飯をつくってと、ほぼ介護状態です。マリカ先生の家には延べ6か月ほど滞在していたでしょうか。あの時期が一番しんどかったですね。日中はマリカ先生のクラスを受けて、家に帰れば先生のお世話が待っている。オーディションにも落ち続けるし、毎日混沌としてました。

 

ツアー先でのNDT1・2合同クラス

 

NDTのオーディションは二回受けています。一回目はオーディション生活二年目のときで、バレエクラスで落とされました。一緒にオーディションを受けたメンバーの中に小㞍健太くんもいて、彼も二回目の挑戦で通っていましたね。一年後の1月にもう一度オーディションを受けて、レパートリーの終わりまで残ったけれど、面接までいかずに落とされています。スイス・バーゼル市立劇場バレエ団のオーディションに受かったのはその直後。ようやく入団の許可をもらえて、“やった、やっと受かった!”と喜んでいたら、NDTから連絡があり“女性ダンサーがひとり辞めたから来ていいよ”と言う。NDTの舞台は日本でも観ていたし、すごく大好きだったので、行けるものならやはり行きたい。

バーゼル市立劇場バレエ団に“NDTに受かったのでそちらに行きます”と伝えたら、“じゃあソリストの契約をあげるから”と言って引き留められました。結局バーゼルはお断りしたけれど、実はバーゼルに提示されたギャランティの方がNDT2の倍近く高かったんです。NDT2のギャランティでも生活はしていけるけど、バーゼルのお給料はその比ではなかったですね。

 

NDTリハーサル ©Daisy Komen

 

三年間のオーディション生活もこれでようやく終わりです。正直私としてはもう少しクラシック・バレエを踊りたいという気持ちもあったけど、NDTに入団できるならそんなことも言っていられません。マリカ先生も伝統的なクラシック・バレエを愛していた人でしたが、“キリアンの所なら行きなさい”と言って送り出してくれました。

 

Medhi Warelski振付『Underneath』

 

-コンテンポラリー